お知らせ
「良い人であろうとすること」のオモテ・ウラ
2026年2月14日
以下心理士鈴木の記事です。診療の参考にしていただければ幸いです。
カウンセリングを受けられる方の中には、「恥をかきたくない」、「悪目立ちしたくない」、「失敗したくない」という気持ちを語られる方が多くいらっしゃいます。このような気持ちから、周りの目を気にして思うように行動が出来ないことや、相手の気持ちを深読みして気分が落ち込むことにつながることが多いです。
この考えは、「良い人(多くの場合、真面目・優しい・頭がいい)だと思われたい」や「良くない人(多くの場合、態度が悪い・性格が良くない・頭が悪い)だと思われたくない」という欲求から生まれることがかなり多いです。そのような欲求自体は自然なことですが、「良い人だと思われたい」ために自身の言動の一挙手一投足に敏感になり、日常生活が苦しくなっていく方がいらっしゃいます。一方で、良い人だと思われたいという気持ちは持っていながらも、このような状況にならずに過ごされている方もいます。
ここでは、これらの違いはなぜ生じるのか、また前者から後者になるためにはどうすればいいかについて述べていきます。

<過度な自己注目>
「良い人だと思われたい」、「変な人だと思われたくない」という気持ちから、かえって辛い気持ちが増幅していく過程には、相手や周りの他者ではなく、自分自身に過度に注目していることが関係しています。周りの目をずっと気にしている状況を考えると、「自分自身にばかり注目している」ということは考えにくいのではないかと直感的に思われるかもしれません。
しかし、「相手にこう思われたらどうしよう」「こんなことを思われてるかもしれない」と結局は「自分自身が相手の目にどう映るか」という心配事に終始していることが分かります。相手が自分のことをどう思うかは、言葉遣いや服装等である程度は自分で操作できるものの、もちろん完全にはできません。ですが、「相手にこう思われないようにしなきゃ」と決まった行動をすることで、相手が自分自身に対して悪い印象を持ってしまうかもという不安を解消しています。短期的には不安は解消しますが、誰かと話すときにはまた「悪い印象を持たれてないかな…」と不安になってまた気を遣い過ぎて…と負のループにつながります。このメカニズムは、「負の強化」という観点で説明することができます。詳しくは、「回避行動のデメリットと克服方法について(心理士鈴木の記事)」の「<なぜ回避はやめられないのか:「負の強化」の罠>」をご参照ください。自分に注意が向きやすいこと自体は、自己注目理論として理論化されており、抑うつや不安につながりやすいことが指摘されています。
この状態にあるとき、例えるなら常に「自分を映し出す鏡」で囲まれているような感覚になります。本来、コミュニケーションは相手とのキャッチボールであるはずが、実際には「ボールを投げる自分のフォームが変ではないか」と鏡ばかりを見ているため、相手が投げ返してくれたボール(表情や反応)をそのまま受け取ることができなくなります。相手に良く思われようと自分に集中すればするほど、相手への関心が薄れているように見え、結果として「何を考えているか分からない人」という印象を与えてしまうことさえ生じてしまいます。
<「優しくあること」への強迫的な執着・自分が「穢れる」ことへの忌避感>
また日々高校生とのカウンセリングを行う中で、高校生くらいの年代の方は「優しくあること」に強迫的に真面目な印象を感じております。同時に「(自分も含め)誰も傷つけたくない」という思いが強い方が多く、根本的には非常に優しい方が多い印象です。そのため、自身の意見を相手に伝えて双方が同意するようにやり取りをすることを、「相手に対して他罰的になること」として捉えています。結果として、自分としてはかなりモヤモヤすることが多いものの、相手には一切意見を伝えず気持ちが落ち込み続けるか、相手に意見を伝えることなく突然関係を切ることで関係を終わらせようとするが多いです。
これらの行動は潔癖症と似たような状態で、自分自身が「穢れ」てしまうことに耐えられない状態であると考えられます。基本的に自分自身はピュアであり、誰かに嫉妬することや、自分のせいで誰かを傷つけうるかもしれないという邪悪で醜い部分はあるはずがないし、あってはならないという前提を持っているのかもしれません。つまり、「悪いもの」は常に外界からやってきて、「自分の内側」からは発生しない前提であると言えます。日常的な例で言うと、このような前提がある場合、誰かと一緒にいる中で気まずい雰囲気が流れることを極端に避けようとすることが見られます。「自分のせいで相手が楽しいと思っていないかもしれない」、「自分のせいで相手も嫌な思いをしているかもしれない」という状況に対して、「自分の加害性」を感じることでしんどい思いをすることに繋がります。
しかし、ある程度成長し、人生の中で様々な体験を得てきた人であれば、全く穢れを持っていないということはありえず、多かれ少なかれ皆自分の内側に「悪いもの」を持っています。そのような「穢れた」自分の存在を受け入れる、汚れる覚悟を持つことが非常に重要になります。
私たちは「加害者」になることを極端に恐れますが、生きていく以上、意図せず誰かの期待に沿えなかったり、誰かを不快にさせたりすることは避けられません。それは「性格が悪い」からではなく、人間が多面的な存在だからです。自分の内側にあるドロドロとした感情や、不器用な攻撃性を「あってはならないもの」として排除しようとすると、その反動で自分を責め続けるか、人間関係そのものをリセットするしかなくなります。「自分も時に人を不快にさせるし、相手も自分を不快にさせることがある。でも、それはお互い様である」という、いわば「清濁併せ呑む」感覚を持つことが、自分を許し、他者を許すことへと繋がっていきます。
<対策:自分を主役から下ろす練習>
過度な自己注目を減らし、対人関係の苦痛を軽減するためには、「自分を人生の主役から一時的に下ろす練習」が有効です。
◯ 目線を自分から他者へ向ける
「自分はどう見られているか」「今の発言は正解だったか」という内面へ向けられた強烈なスポットライトを一度消し、意識を物理的な外の世界へ向けてみましょう。私たちの脳が一度に処理できる情報の容量(注意の資源)には限りがあります。そのリソースを「自分」ではなく「外部」に割り振るのです。
- 日常での具体策: 誰かと話している最中に不安や緊張が強まったら、「相手のまばたきの回数を数える」、「相手の瞳の色を観察する」などを行い、相手を徹底的に観察してみてください。他にも「相手が何回頷いたか」「背景にどんなポスターが貼ってあるか」など、客観的な事実に集中します。このように注意のキャパシティを外部の情報で強制的に埋めることで、自分をジャッジし、自分を責めるための「心の余白」を減らしていくことができます。
◯ 「役」は変わりばんこでいい
どんな名俳優でも、常にスポットライトを浴びる主役ばかりを演じるわけではありません。時には通行人、時には悪役、時にはセリフのない脇役も演じます。これと同様に、人生においても「常に皆から好かれる清らかな主役」を演じ続ける必要はありません。物語を彩るためには、主役を支える「モブキャラ(背景の人)」や、物語を動かすために嫌なことを言う「ヒール(悪役)」の存在も不可欠です。
- 日常での具体策: 「今日は1日、誰の記憶にも残らない『背景の通行人』として過ごそう」と決めて外出してみる日を作ってみてください。あえて愛想笑いを封印したり、気の利いた返事をするのをやめたりして、「無個性で、いてもいなくてもいい一人」として存在してみるのです。完璧な振る舞いを投げ出してみても、世界は穏やかに回り続けていることに気づくはずです。これは「自分が世界の中心でなくても、安全に生きていける」という安心感を育む、非常に重要な練習になります。
◯ 「加害性」を受け入れるスモールステップ
自分が「穢れる」こと、つまり「誰かにとって都合の悪い存在になること」を許容する練習です。自分の中にある「清らかでいたい」という執着を緩めるために、日常生活の中でごく小さな「悪役」を演じる実験を行います。
- 日常での具体策:
- 「誘いを断る」: 相手に申し訳ないという罪悪感(自分が汚れる感覚)を抱えながらも、「今日はゆっくりしたいので」と理由を添えずに断ってみる。
- 「沈黙を埋めない」: 会話が途切れたとき、気まずい空気を「自分のせいだ」と引き受けて焦るのをやめてみます。その重い沈黙をあえて放置し、相手と共有してみるのです。「気まずさを解消できない不完全な自分」をさらけ出すことは、自分自身の人間臭さを認めるプロセスでもあります。
- 「期待を裏切る」: 全員に「いい人」と思われることを諦め、一人の人にだけは「冷たい人だ」と思われても良い、という限定的な許可を自分に出してみます。

私たちは、他人の人生の物語においては単なる「通行人」に過ぎないこともあります。自分が主役である必要がない時間を増やすことで、世界はずっと広く、自由な場所に見えてくるはずです。役を降りることは、責任逃れではなく、あなた自身の心を自由に解き放つための大切なステップになります。
当院では以上のような背景を考慮した診療を行っております。初診ご予約希望の方はまずは診療相談または予約サイトからお問い合わせください。