お知らせ
苦悩と向き合うということ 〜メンタルクリニックにおけるもう一つの役割〜
2025年5月1日
人生において苦悩は避けることのできないものです。突然の不条理、喪失、人間関係の軋轢、病、老いこれらは誰の人生にも訪れます。苦悩は普遍的であり老若男女問わず、苦悩のテーマは驚くほど似ており以下の点がほとんどです。
- 人間関係の葛藤
- 経済的な不安
- 老いと病
- 喪失体験
苦悩は、私たちが「所有している」と錯覚しているもの(財産、地位、愛情、自尊心など)を失う過程でより強く現れます。所有への執着が強いほど、苦悩はより深く鋭くなります。しかし、最終的に私たちは、肉体も財産も名声もすべて手放す存在です。喪失は避けられない現実であり、それを受け入れることは生の本質に触れることでもあります。苦悩は、自己変容と意識の拡大の入り口とも考えられます。苦しみを経た人は、他者への慈悲心や理解を深め、自身の成長へと繋げることができるようです。ときに苦悩は闇(絶望)に沈むリスクも孕んでいますが、乗り越えた先には、広い視野と他者視点を得る変容が起こることがあります。仏陀ですら、悟ったあとも苦悩を抱え続けました。苦悩があることが「本来の人間の姿」だともいえます。
高校生から80代まで、実に幅広い世代の方が通院されております。日々繰り返される診療のなかで、個々人の苦悩の「歴史」と「背景」に耳を傾け続けておりますが、苦悩に正解やマニュアルは存在せず必要なのは、一人一人に応じた微細な対応と、継続的なフォローです。ときに、ただ「見守る」ことしかできない場合もあります。それでも、人は自然治癒力を備えており、静かに回復していく力を持っています。
苦悩と向き合ううえで大切な心構えに以下のようなものがあります。
・失うことを受け入れる:古典の方上記や平家物語にも記載されているように、すべてのものは移ろいゆき、永遠に所有できるものはありません。失うことは自然な流れであり、悲しみながらも受け止めることが成長につながるのでしょう。ときには死を意識することも必要かもしれません。病気で死にかけた経験や、喪失体験は、「今ここをどう生きるか」という意識を強烈に呼び起こすことがあります。
・視点を変える意識を持つ:苦しんでいる自分自身を、もう一人の自分の視点、お天道様の視点から見守る。メタ認知ともいいますが、より広い視点で現在を評価することも大切です。少し余裕があれば苦悩している自分を「笑い飛ばす」ことも時に有効なことがあります。
・ネガティブ・ケイパビリティ:ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)とは、「すぐに答えを出さず、どうにもならない不確実な状況や曖昧さに耐える力」のことを指します。もともとは19世紀の詩人ジョン・キーツが提唱した概念です。彼は、偉大な創造性を持つ人は「事実や理屈にすぐ結論を求めるのではなく、不確かさや未解決の問題に耐えられる能力がある」と述べました。具体的には、どうにもならない不安、解決策が見えない悩み、理不尽な現実に直面したときに、「すぐ答えを出そう」「結論を急ごう」とせず 不安定なままにじっと耐える力を指します。時間はかかりますが、実は答えはもう出ていた、与えられていたと気づく瞬間があるかもしれません。
・他者の存在の力を借りる:人は社会的な動物です。1人で生きるものとして設計されていません。誰かが自分を見守ってくれている・・たったそれだけでも、人は孤独に耐えることができます。人が誰もいない場合は動物、植物、神仏でもいいかもしれません。
・相手を変えようとしない:他人を変えようとする試みは、ほとんど実を結びません。それよりは相手を変えようとする自分自身の在り方を見つめ直すことが重要です。教育、子育て、職場――あらゆる場面で、「相手をどうにかしよう」とする発想を手放し、自分自身のこころの在り方や行動を整えることが本質的なアプローチであるともいえます。
・苦悩を恐れない:苦悩を安易に打ち消そうとするより、苦難な道や行動を選び、耐え抜くことでしか、本当の成長は得られないこともあります。苦悩を恐れず、「苦悩をくぐり抜けることそのものが、人生を豊かにする」と信じ、その場その場で必要な行動を繰り返すことが苦悩を滅する一番の近道ということもあります。
精神科医療の基本は、診断を行い、適切な薬物療法を提供することにあります。しかし、 単に病気を診断し、薬を出す場所でないという一面もあります。以下のように、「人が苦悩に耐えるのを支える」という、もう一つの大きな役割があると考えております。
- 苦悩を取り去るのではなく、苦悩と共に生きる力を支援する。
- 苦悩に直面しながら、他者に見守られる安心感を提供する。
- 苦悩を通じて優しさや自己成長へと至る道を共有する。
日々、診療業務や経営に忙殺される中にありながら、内なる静穏を保ち、先に申し上げた視座を忘れないようにしております。