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心理士によるコラム

心理士コラム②

「ありがたくないプレゼント」 ~症状の意味を問う~

心理士沓名のコラムです。

 ある精神科医の先生は、症状について次のように述べています。

 頭によって心の奥の方に追いやられている本当の自分の欲求があります。その欲求が頭によって押さえつけられて、意識化されない。心から発せられる真の欲求が頭からのコントロールによって、「まあまあ、そうはいっても現実は・・・」と後回しになったり、「そういうことは望んではならない」と抑圧されると、その抑圧されたエネルギーが我慢しきれなくなってメッセージを発します。真の欲求は、長い間抑圧された恨みもあるし、頭に本気で考え直してもらう必要もある。だから、症状は派手なものでなければならないし、気づいてくれるまで何度も繰り返し起こさなければならないのです。

 このように症状というものは、必ず大切なメッセージを含んでいるのです。ですから、本来は有難いものなのです。この症状がなかったとしたら、この人はこの先も不自然な自分らしくない状態で生きていることになる。そこを軌道修正させてくれる病気の症状というものは、プレゼントとして受け取る必要があります。実に嫌な「不幸」「苦しみ」というラッピング用紙に包まれているけれど、その中身は本人にとって、とても大切なメッセージが入っている。このプレゼントは、受け取りを拒んでも、症状の再発という形で必ず再配達されてくる。いつかは覚悟してきちんと受け取らなければ終わらないものなのです。

 例えば、うつは、休んでいるしかないような状態が起こるので、「休息して、充電しなさい」「立ち止まって考えてみるように」というメッセージとも受け取れます。単純な充電で済む場合はうつにはならず、「疲れたので休みたい」「休んだら元気になった」となるはずですが、うつ症状が要請する充電はちょっと特殊です。特にうつが再発した際は、元の状態に戻っただけでは済まない、「このままでいいの?立ち止まって考えてみて」というメッセージをしっかり理解する必要があります。

 パニック障害はどうでしょうか。この不安発作は、突然理由もなく訪れる「今にも死ぬんじゃないか」と感じるような不安の発作です。

 ラテン語で、「メメント・モリ(=死を忘れるな)」という言葉があります。死ということを隣においてみた時に、初めて自分の今の生き方が問われます。だから、「良くい生きるために、死を忘れてはならない」ということを意味する言葉です。パニック発作でもたらされる「今にも死ぬんじゃないか」という感覚は、強制的にメメント・モリが訪れた状態とも受け取れます。日常生活の中で、「まあ、そのうちやるさ」「これは本当の姿じゃないけれど、とりあえずこうしておこう」とごまかしている。一番その人らしい中心、本当のその人がすっかり追いやれて大切にされていない状態ですごしていると、不安発作が訪れて、「自分のメメント・モリから遠い生き方になっていないかを改めて見つめては」というメッセージが届くかもしれません。

 辛い症状に苦しまれている方は、早く以前のように戻りたいと思われるでしょう。しかし、元の姿・あり方は、ご自身にそのような症状を生み出す負荷のかかったものかもしれません。辛い「不幸」「苦しみ」というラッピング用紙に包まれているプレゼントを受け取り、その中にある大切なメッセージに向き合うことで、新たな自分の在り方を模索するきっかけが潜んでいるかもしれません。

心理士コラム①

心理士沓名のコラムを紹介します。生き方・考え方の参考にしてみてください。

 最近話題になっている宇宙飛行士候補の米田あゆさんは、

 「失敗を失敗で終わらせない。自分の決断や選択をする際、悩むことはすごく大事。悩んで決断した後、振り返った時に、あっちが正しかったかな、こっちが正しかったじゃなく、自分が歩んだ道を正しい道にする努力をしなさい」と研修医の先生から言われたそうです。

 私たちは、生きていく上で、選択や決断を繰り返して今の生活に至っています。選択や決断が迫られた際には、できるだけ、正解、正しい道を選びたいと思うものです。そして、うまくいかないことに直面すると、「あの時のあの決断が間違っていた」「あの時のあの行動が失敗だった」と過去の自分を恨めしく思うこともしばしばあるでしょう。時には、過去の出来事についても、「あれで良かったのかな」「別のやり方があったのではないか」と自ら間違い探しをすることもあると思います。そのような思考に陥った際に、米田さんのお話には、ハッとさせられるものがあります。

 私たちは、学校での○×式のドリルや試験等を通して、「世の中には唯一の正解がある」「間違えてはいけない」という感覚を思いのほか刷り込まれていると、痛感させられることがしばしばあります。そのような感覚でいると、「そういう考え方があるのか。試してみよう」という発想を持ちにくく、1回の間違いで失敗したと思いがちです。一方で、学校生活から離れ社会に出ると、何が正解かわからない、模索しながらなんとか道筋をつけてやっていくしかないという場面に、しばしば遭遇することでしょう。その際は、試行錯誤して、少しづつより良いと考えた方向へ決断し、進んでいくしかないこともあります。間違えることを恐れることから抜け出せないと、なかなか前に進むことができません。また、ようやく決断を下しても、「それは合っているよ」という誰かのお墨付きがないと不安に感じてしまうこともあるでしょう。

 世の中の変化が激しい昨今、今までのモデルが参考にならなくなってきています。その際、過去の決断も現在の決断も、思い悩んだ末の選択であれば、あとは米田さんのお話んあるように、未来に向かって「選んだ決断を自分にとって正しいものにする努力」をできたら良いですね。人間万事塞翁が馬、最後の最後までその努力の結果はわかりません!