心理面接・カウンセリングとは?

カウンセリング(心理療法)とは?

「カウンセリングって、何?どんなことをするの?」という疑問を、初めてカウンセリングを受ける方は抱くことが多いと思います。最近は、海外のドラマも簡単に見れるようになり、海外の方が自分のことを心理士に話している光景を思い浮かべる方も増えている印象があります。私自身は初回のカウンセリングで、「カウンセリングは、いろいろな方法があります。ここでは、今抱えている問題について心理士が助言するというより、自分の気持ち・考えを話していくことで整理したり、気づいたりする時間にして頂きたいと思います」と説明しています。そのため、自分の抱えている問題について、「こうしたら良い」と明確な答えが得られるのではと期待されている方は、がっかりするかもしれません。では、カウンセリングという場で自分自身の考え・気持ちを話すことにはどんな意味があるのでしょうか?カウンセリングを受ける方によってそれぞれがいくつもの意味が見いだせるかと思いますが、今回は「カウンセリングという場」について考察したいと思います。

カウンセリングはどんな場所と言えるでしょうか?心理士という中立的な立場の人間を相手に自由に話すことができ、かつ話した内容について守秘義務が守られる場と言えます。日常生活では、それぞれが、夫、妻、父親、母親、子ども、上司、部下、友達等、それぞれが役割を持って人間関係を築いています。そのため気づかないうちに、「こんなことまで話して良いのかな」「この人とはここまでしか話せない」等の制限がかかっているものです。しかし、カウンセリングは守られた場で、自由に話すことができます。精神科医の北山修先生は、人生を劇場に例え、「人生劇場には楽屋が必要」との考えで「治療室楽屋論」を提唱しています。これは「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌っていたバンドのメンバーであった北山先生ならではの表現です。治療室=カウンセリングの場と読みかえ、人生という表舞台に立つのに、カウンセリングという楽屋を設けて、本来・ありのままの自分を整える場として使うという話です。

カウンセリングという場を設け、自分の気持ちや考えに向き合う時間を得ることで「自分ってこうなんだ」との気づきを深め、整えることでまた日常生活に戻っていく。その気づきを日常生活の中で生かし、そこで生じた変化を再度カウンセリングの場で整理していく、といった循環を得ることで、今までと違った自分の在り方、北山先生曰く、人生の台本を読み解き書き換えていくという経験を積み重ねていけるのではないでしょうか。

カウンセリングで自由に話すことの意味①

心療内科や精神科に来られる方は、何らかの症状に困って受診されることと思います。
「その症状さえ消えれば…」と思っている方が多いと思いますが、症状が生じる背景には心理的問題を抱えていることが多々あります。その問題は、今までの生活歴や今感じていること・考えていることを話していくうちに浮かび上がってきます。その問題に向き合い、どう付き合っていくかを考えることが、遠回りですが症状の改善につながっていきます。

北山先生は「口から吐物が出るにしても、顔から火が出るにしても、肛門から排泄するにしても、それぞれがそれぞれの具体的な清潔・不潔の秩序を共有する人々の中に置かれるからこそ、私たちは保持の失敗を恐れ、これに失敗するならば、自分の居場所を失うのである」と表現しています。難しい表現ですが、「食べたものを嘔吐したり、お漏らしすることは、排泄物を適切に処理できずに人前にさらすという意味で恥とされ、さらしてしまった場合はその場所を失うこともある」といった意味と理解できます。つまりは、(幼児や身体に問題がある人以外は)自分の排泄物の処理は自分一人で実施し、人前にはさらさないものと言えます。

それを心の問題に置き換え、心にたまった未消化物つまりは心の中に汚いと感じる感情(恨み、嫉妬、怒り等)を心の中に抱えておくことができずに、それを吐き出したり、漏れ出たりすると、様々な精神症状につながっていくことがあります。そういった人前では出しづらい心の中の未消化物を自由に話せるのがカウンセリングの場です。カウンセリングで自由に話すということは、心理士という他者がいる状況で、本来人前では出せない自分の中の生臭い未消化な感情を吐き出せるという意味があります。未消化な感情を吐き出すことは、それはすっきり感を伴うものですが、一方で、自分の中にこんな感情があったのかと、驚きと自責感を伴うこともあります。自分自身に向き合うことは、自分の見たくない側面に向き合う厳しさもあるものです。

人は本音と建て前、裏と表があります。どちらもご自身であり大切なものですが、日常生活ではどうしても建て前や表で接する場面が多くなっていると思います。カウンセリングは本音・裏を出せる場です。自分の本音や裏に改めて向き合い、建て前や表の自分とバランスをとる場としても活用できると良いですね。

カウンセリングで自由に話すことの意味②
~当たり前を疑う 個人レベルで抱く当たり前~

人は、育った家庭、社会でいつの間にか植え付けられた「当たり前」があるものです。その人によっては当たり前・当然なので、自分一人では気づくことがとても難しいものです。しかし、その当たり前にしばられて、とても苦しい思いをしている方も多くいます。それは、家庭という小集団で身についたものもあれば、その地域、社会、国といった大きい集団で身についたものもあります。

幼い頃からの家庭生活や学校生活で、「他人は自分を傷つけたり、騙したり、利用する存在だ」「自分は他者から愛されたり、大事にしてもらえるはずはない」と感じている人がいるかもしれません。それらは、その人にとってあまりにも当然で、疑うことのない真実と感じていることがあります。そのため、敢えてそのことをテーマに話すということは難しくなります。しかし、今感じていることを自由に話していくことで、徐々に当たり前、自分特有の「信念」「価値観」「構え」に気づいていくものなのです。これは心理学では、スキーマと言います。上記の例は、「不信のスキーマ」、「情緒的剥奪のスキーマ」を持っていると言えます。自分がどんなスキーマを持っていてるか、自分の感じていること・考えを話すことでわかってくるものなのです。

カウンセリングで自由に話すことの意味③
~当たり前を疑う 社会的レベルで抱く当たり前・常識~

自由に話すことで、自分の当たり前が当たり前ではなかった、またいつの間にかその当たり前に縛られて苦しい思いしていたと気づくことがあります。その当たり前は、大きく見れば社会の常識で、その時代の人が共通に持っているけれども、時代が変われば変化するものかもしれません。人によっては、その常識に縛られることに息苦しさを感じるかもしれないし、一方で常識に合わせていけば良い、その方が楽だと感じる人もいるかもしれません。前者の場合は、周りとの摩擦があっても常識に縛られない生き方を意識的に選ぶこともできますし、あるいは、常識に縛られて苦しいものの、周りと摩擦を起こすくらいなら常識に合わせた方がましだとする生き方を選択するかもせれません。
具体例を挙げれば、良妻賢母という女性の生き方もそうでしょう。以前は良妻賢母の姿が肯定され、そこからはずれると周囲の風当たりが厳しい状況がありました。しかし、歴史をひも解くと、女性が働いていなかった時代はなかったようです。たとえば江戸時代の日本は、共働きが当然でした。農家や職人の妻が「家業を手伝う」のは基本で、そのほかにも接客・物売り・産婆・髪結い・手習いの師匠・機織りなど、女性はさまざまな職業で活躍していました。しかし、企業における組織的な労働という働き方の変化からサラリーマンが生まれました。それに合わせ遠く、長時間労働では、今までのように「仕事の合間に家事をこなす」ことはできません。この頃から「家事と仕事は分業」という意識が生まれ、加えて明治に「良妻賢母(優秀な次世代を育てるのは母の役割)」教育が積極的に行われ、その結果、生まれてきたのが「専業主婦」です。ある専業主婦の方は、サラリーマンが「社畜」と揶揄されていたことに対し、自分を以下のように表現していました。

妻は家庭で放牧された「家畜」といえるかもしれない。「家畜」である自分は、家庭という柵の中から、メエメエ泣きながらも、遠距離通勤・長時間労働・単身赴任の社畜である夫から任された家事や育児を担ってきた。そのような状況で、長年分業を続けた結果熟年離婚が増えている。今後社畜と家畜がどう向き合って生活を営んでいくかが、自分の課題である。

その方は、そのような背景に気づき、良妻賢母というあり方が当たり前の生き方ではなく、その時代の社会の要請であり、また同時に夫の仕事一筋の生き方も社会の要請による仕方ない一面もあるとの理解を深め、自分の生き方を心に納めていきました。

カウンセリングを受けることで・・・
ある方が、下記のように表現されていました。

「何かを知る」ということはある複雑な出来事の全容を解明するという奇跡の鍵を手にすることではなく、無限にある解釈のうちの一つの視点を獲得する、ということです。スーラの風景画の無数の点のように、世界は近くに寄れば寄るほどバラバラで、色とりどりの小さなかけらでできており、何かを知るということはそのうちの色を見分けることができるようになったに過ぎません。自分が自分の障害や家族との関係について多少の知識を得たからといって、世界が一気に秩序だって見えるわけではないのです。
すべてはこのせいでこうなった」なんてことは言えません。そのあいまいさに耐えることが成熟するということであり、一方で曖昧なままで放置しないこともまた、大切な姿勢です。

カウンセリングで気づきを得、「こうだからこう」「こうしたらすべては解決」となればそれはそれで喜ばしいことですが、長年悩み苦しんできた事柄は、そう簡単に解決できることではないと思います。上記の方も、すっきり、さっぱりではない心の内をわかりやすく表現してくれています。一人で問題を抱えていくのはしんどいものです。今の社会状況では、じっくり話を聞いて受けとめてもらえる場所はなかなか見つからないものです。カウンセリングはすっきりさっぱりとはいかないかもしれませんが、今一度自分の不安、困りごとに向き合い、それらに対してどう付き合っていくか、心の内に納めていくかを心理士と一緒に模索していく場として考えてもらえたらと思います。